24 Feb 2010
☆『「般若心経」を暗記しましょう・その69』
私はまた、『その45』で、
〔もっとも、「般若心経」はその「無」さえ”「無」として捉えろよ”と言ってい
るのでしたね。この「無も無」なのだという考え方についても、いずれ皆さんに理解
していただける論述を試みてみます〕、と述べました。
これは、具体的には「心経」の中ほどに「無無明 亦無無明尽」とあるのを指して
言っていますのです。ここでの意味は「知恵がないということもなく、また知恵がな
いのが尽きるということもない」〔原口流の意訳では、「無知を云々することも無用
だし、無知者をなくすということも無用なのだ」となります〕
これについては以下のことで直ぐ理解していただけましょう。
例えば、「不器用」という言葉がありますが、これは「器用」の一部を担っていま
す。不器用者は手際が悪く、テキパキと処理することは出来ませんが、しかし捌ける
ことは間違いなく出来るのですからね。従って「器用の部類」に入るのです。
これと同じように、「無明」とは”知恵が高くはない”というだけのことであっ
て、丸っきり知恵がないことを意味してはいないのですよ。その同じ意味合いから、
厳密に言うなら「無」も「有の部類」ということになりますのです。
ですからね、つまり「無……」だけでは否定が中途半端になってしまうので「無無
明 亦無無明尽」として、「空」を分かりやすく表現したのでしょう。
更に述べますが、「心経」の深意である「空」の思想は、「無も無」とすることで
完成するのですね。上記した事柄から、「無」だけでは「有」の部類であることを含
んだものになってしまいますのです。ですので、”無を語ることも無”と言うので
す、”無を論ずることも無”とも言っているのですね。
まだまだ意を尽くしていないので更に説明を加えます。
例えば、「無人」という場合は人の否定ではありません。限定されたある場に人間
がいないことを意味しているのであって、人類と言う意味での人間の存在を否定して
いるのではないのですね。
同じように、「無効力」は効力がない、というだけのことで、効力と言うものの概
念を否定しているのではないのです。
そんなわけですので従って、「無」を更に否定しなければ「空」の思想は完成しな
いのでした。