円周率世界記録を達成した原口證が、自らの人生経験から得た教訓やコツについて、書き綴るページです。

《 我が頭脳の存外な不活性さにお気づきを! 》

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『休日ごとの常識外な頭脳活性化講座』
~誰もが死ぬまで明敏な頭脳で暮らせますことを信じて~

 

《 我が頭脳の存外な不活性さにお気づきを! 》

 

ある時、私は気づかされたということです“【見える】ということの功罪”を、ですね。これにつき誤解を恐れずに直言するならば、
《 なまじ見えるがゆえに惰性的な日常に陥っている目明き人 》
ということになりましょう。“何事にもしっかりと意を注いで生活している盲人”に対比するとです。

 

要するに、使われているだろう頭脳の量がまるで違うということです。
それなのにですよ、“使っていないことに気づかない”のです、我々目明き人は。

 

皆さんが「よく見ているよ、記憶はシッカリしているね」というのです。
ですが例えば、慣れきっているはずのご自宅のことであっても「二階への階段数は幾つか」と訊ねたなら殆どの人が答えられないのです。
「目を閉じてトイレへ」と望むとノロノロ壁を頼りドアのノブを手探ります。何度も見てきた場所なのに、極めて短い距離なのに、ですよ。

 

見えていたはずが認識できていないという事実、我が【視認力】のあまりの低さ、これには指摘された皆さんが愕然となさいます。
惰性的行為はその源泉である“記憶の意力”が弱いゆえ、いずれは鈍化⇒希薄化⇒消滅へ、と変化していくことを直感するからでしょうね。
【認知症】とは、かくして発生するものではないかと私は推察しております。
従って、程度の差はあれ目明き人の誰もが病の予備員であるということです。

 

よって、“これは勿体ない”と考察するようになったのです。
その端緒は次なようなことでした。
《 一般的に、【見える】と気が散漫になる 》
つまり、盲人の側に立ってみれば、言わば“飽食者の味オンチ”のような状態になっているのだろう、と捉えてみたのです。

 

“気が散漫になっている”なんて言うと、誰もが怪訝に思いましょう。
ですが、貴方は“考えを巡らす時や記憶を辿る際には瞑目する”のではありませんか。それはつまり、目を瞑った方が頭脳の働きが確かだからですよね?
(暗記好きの私にはこの辺の理屈は明白なのですが駄弁になるので省きます)

 

オーッと、またもツイツイ長文になってしまったので、この辺で止めておきましょう。
次回をお待ち願います、“希望を添える”ゆえ。

 

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